先生に学ぶ

先生に学ぶ

みなさん、こんにちは。小林です。
気づけばもう10月に入り、肌寒さ感じる時期になりました。あっという間に夏が終わってしまいました。すこし寂しい思いです。
ここに来てはや半年。時間の流れというのはほんとうに早いですね。先輩方の薫陶を受けながら、貴重な経験をさせてもらっています。
この半年間を振り返ると、先輩方のものの見方や洞察の深さに驚くことばかりでした。「そんなこと全く考えていなかった」と、己の未熟さが痛切にわかるような、とても充実した日々です。
このような環境で研鑽を積めることは、本当にありがたいことだと思います。

まだ二十数年の人生ですが、思い返せばたくさんの方にお世話になりました。
なかでも大学時代に出会った先生には、私そのものをまるごと変えてしまうほどの、多くの贈り物をもらいました。彼なしでは今の私はありません、というと大袈裟に聞こえますけれど、本当にそうなんです。そう断言できてしまうほど、気づけば話す言葉からものの見方、生き方まですべてが変わっていた。僕がこうして話していることは、僕の知によるものではなく、すべて先生たちの知によるものです。いかにも、僕の頭と口を通ることによってほとんど劣化してしまっていますが(彼らの叡智を損なうことなく語ることは、僕にはどうしたって不可能なんです)。

そのような出会いは、そう多くありません。
意図せずたまたま関係をもって学び、ふと気づくとたくさんの贈りものをもらっていて、自分にとって大きすぎる存在になっていた。そんなふうに、「あとになって」わかるものだと僕は思います。
それは「私は私の条件を満たすピッタリの先生と、運良く出会えたのである」というような、意地の悪い確率の話をしているのではありません。誤解しないでくださいね。
「いい先生像」が自分のなかに「事前に」あって、それと合致する人を探す。そうしているかぎりは、どこを探しても「先生」と出会うことはできません。
「いや、学校とか塾にいけば先生がいるんだけど」と言われるかもしれませんけれど、実はここでの「先生」というのはその先生とはちょっと違います。へんな言い回しですみませんね。

僕たちが普段使っている「先生」という言葉は、どれだけの意味を含んでいるのでしょうか。
先生という字は、「先に生きる」と書きます。
ということを言っても、ぜんぜん新味がありませんね。
でも、やはりそこにはいくらかの豊かさがある気がします。

もちろん、先生とは「年齢的に先に生きている者」であるということは言えると思います。
でも、年上の人たちはみな先生であると言われると、なんだか僕はピンときません。
それよりかは、先生とは「先をいっている者」と考えるほうが、しっくりくる感じがします。
すごくフワフワした言い方ですが、それがピッタリはまる。
というのも、実際先生たる人を前にしたときに一番鮮明に感じるのは、話の内容とか、筋が通っているとかではなく、「この人は私の先をいっている」という漠然としたものだからです。

その人が話していることがどんなに意味不明で理解不能でも、「私の先をいっている」「私の見る世界を超えている」ことは、だれでもすぐに分かります。
私が知らないことを、この人は知っている。この人には私に見えないものが見えている。私はこの人に対して「絶対的に遅れている」。根拠なんて特にないけれど、その「遅れ」だけはなんとなく分かる。一体それが何なのか「知りたい」。
それはまさしく学びの始点です。
そのような「この人は私の理解をはるかに超えているに違いない」という根拠のない確信と、「それを知りたい」という知的欲望によって、はじめて「先生に学ぶ」ことができる。

その「遅れ」というのは一体何なのか。先生は何を見ているのか。何を言いたいのか。
それはその人のもとで学ぶ日々のなかで、ゆっくりと時間をかけて分かるものです。
そのあいだに考え方も、ものの見方も、話す言葉も、振る舞いもゆっくりと変わっていく。
これからどんな人と出会って、どんなふうに変わっていくのか。それは他のだれにも、みなさん自身にもわかりません。

みなさんに、素敵なご縁がありますように。